2013年11月11日

宇野常寛さんの『叛逆の物語』評論と、僕がそれに納得できなかった話。


まどか☆マギカ新編、『叛逆の物語』のネタバレを含んでいます。







 まずは宇野さんの『叛逆の物語』評について、「宇野常寛のオールナイトニッポン」(11月8日金曜深夜)で聞いた内容を以下に簡単にまとめてみます。


 新編は途中まで、TV版と同じようなことをやっている。つまり、繰り返す時間(現代社会の比喩みたいなもの)の中に囚われていて、そこから脱出すると「どうやって成長したらいいのか」みたいなイメージを掴める。新編でほむらは、まどかへの思いをきっかけに繰り返す世界から脱出していく。そこで鍵になるのは同性同士の友情。ここまではTV版でも描いたものを角度を変えて掘り下げただけ。

 新編にはここから先がある。ほむらは、まどかがTV版で自分を犠牲にして作った平和を一部ひっくり返し、台無しにしてしまう。ほむらはそれでかまわないんだという決意をする。
 これはどういうことか。まどかが作った世界は、誰も傷つかないで済む、完全にシステム化され、完全な正義が実現された世界。しかしほむらはそれに耐えられない。そのような世界は正しいのだけれど物足りなくて、欲望が解放できない。ほむらはそのようなシステムに耐えられなくて、悪と呼ばれることも承知で、開き直って小さな世界に閉じこもってしまう。

 ここで同じ虚淵さんが脚本の『Fate/Zero』を思い出してみると、よく似た内容がある。この作品では、二人の主役が出てくる。一人は世の中の仕組みを悟っていて、そのせいで空虚であり、欲望とかがない人物(言峰綺礼)。もう一人は、現代社会には絶対的正義なんて無いとわかっていながらも、悪と言われることも承知で、自分なりに悪と正義を切り分け、正義になろうとする(衛宮切嗣)。『Fate/Zero』はこの二人の衝突を描いている。

 この二人は、(おそらく、宇野さんが『リトル・ピープルの時代』で語ったところの)「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」に対応する。そして、悟ってるんだけどそのせいで空虚な言峰は、TV版での結末でまどかが作った世界に対応する。自分の正義とか美に殉じちゃう衛宮は、新編の結末でほむらが作った世界に対応する。虚淵玄の作品では、どちらにおいてもこの2つが衝突している。

           世界の終り = 言峰綺礼 = TV版の結末でまどかが作った世界
ハードボイルド・ワンダーランド = 衛宮切嗣 = 新編の結末でほむらが作った世界

 『仮面ライダーW』は、勧善懲悪が通用しない現代で、それを復活させようとした作品だった。小さな街だけを舞台にして、引きこもることを選んだ。そして「ある街の正義は別の街の正義とちがう」という前提から逃げた。『W』の最終回は『まどか』新編とそっくりだが、『まどか』新編のほうがずっと深度がある。美醜とか愛とか人間的な価値を求めるためには、ときにはシステムに背を向け、小さく引きこもらなきゃいけないことがある。でもそれは悪になるかもしれない。自分の信じる正義とかを実現すると、誰かにとっては悪になるかもしれない。そういうことを描いていて、これは『W』が描けなかったところ。

 正義とか悪とかをどうしても描かなければいけないジャンルである仮面ライダーで、虚淵さんが何を描くかに注目(『仮面ライダー鎧武』)。『まどか』はセクシュアリティとか、他の面から見ても面白い作品ではあるけどそれは別の機会に。


 ……というのがオールナイトニッポンで宇野さんが話した内容でした。



 しかし個人的には納得できないところが多い。


 ほむらには「まどかのため」というたった一つの行動基準しかなくて、その基準で新しい世界も作られている。自分なりとはいえ功利主義的な倫理を通そうとした衛宮切嗣の行動や理念とは程遠い。
 ほむらがまどかの作った世界に叛逆したのは、単にこの世界ではそのまどかが犠牲になっているからであって、「正しいのだけれど物足りなくて、欲望が解放できない」システムに耐え切れなかったからなんかではない。まどかの世界が空虚だという描写はどこにもなかったと思う。
 なので、なぜ言峰がまどかの世界に、衛宮がほむらの世界に対応させられるのか、自分には全然わからない。

 それに「世界の終り」って『リトル・ピープルの時代』では「(宇野さんの言う)ナルシシズムの記述法」の話じゃなかったっけ。だいぶ関係ない話になってないかな。あの本の内容をよく憶えてないので、ちょっとここはわからない。



 宇野さんは「自分の信じる正義を実現すると、誰かにとっては悪になるかもしれない」っていう話を新編が描いたと言う。でもそんな話は、『まどか』では最初から前提となっている世界観だ。
 いくらでも例は出せるけれども、たとえば7話の時点で「希望を祈れば、それと同じ分だけの絶望が撒き散らされる」 「そうやって差し引きをゼロにして、世の中のバランスは成り立ってるんだよ」って杏子が言っているし、杏子の過去もそういう話だ。
 さやかは確かに「何人か救いもしたけど」、「その分、心には恨みや妬みが溜まって」他の人を傷つけたり死なせたりした。
 ほむらはまどかを救うために、さやかを殺そうとしたこともある。
 最終話のまどかが魔法少女の末路を救おうとして世界を改編したことですら、元々いなかった魔獣という存在を出現させてしまった。
 そういう世界であることはTV版の時点で誰もが承知なのであって、いまさら新編から読み取るような話じゃないと思う。



 「まどかが作った世界」を「誰も傷つかないで済む、完全にシステム化され、完全な正義が実現された世界」だと言うのは、作品の誤読だと思う。
 魔獣は暗躍してたし、魔法少女は戦い続けて死ななきゃならないし、エントロピーの問題は解決が遠のいたし、QBも陰謀をめぐらせていた。
 ほむらが最終話で「たとえ、魔女が生まれなくなった世界でも、それで人の世の呪いが消え失せるわけではない」「世界の歪みは形を変えて、今も闇の底から人々を狙っている」「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界」と言っていた通りだ。
 新編でのほむらの世界改編と同じように、TV版でのまどかの願いも「完全な正義」なんかでは全然なかった。

 「まどかが作った世界」と「ほむらが作った世界」を対比させるのも良いけど、こと「正義と悪」の話で語るならば、その2つの世界は本質的にはまったく同じだ。
 その2つのどちらの世界においても(あるいは一番最初の世界でも、もっと言えばこれから何度改編を繰り返した世界でも)、本当に根本的なところは何も変わらない、っていうところが『まどか』らしいところだと思う。宇野さんの読みはなにかがおかしい。



 全体的に宇野さんは、自分が持ってる理論の側に作品を引き付け過ぎている気がする。宇野さんが自著で自分の思想を展開する中で作品の一例として『まどか』をこのように論じるのならまだ許容できるけど、『まどか』の作品批評としてこの議論はちょっと受け入れがたいなぁ、という気持ち。

posted by おりあそ at 15:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月03日

母性vs愛vs正義 まどか『叛逆の物語』感想メモ


昨日ようやく『叛逆の物語』を観てきました。以下、とりあえずの感想メモです。
ネタバレも入っています。




● 『叛逆の物語』のサービス精神

『叛逆の物語』のシナリオを、純粋に物語としての出来具合だけで評価するのも結構ですが、僕は初めに、この映画が娯楽作品として、幅広いニーズにほぼ完璧に応えていることを大いに評価したいです。

まず、TVシリーズの終わり方からして続編を作ることだけでも困難であっただろうに、ほぼ全ての登場人物にしっかり出番や見せ場を作っています。特に、TVシリーズで不遇な扱いを受けたマミさんやさやかちゃんの活躍は、彼女らのファンが一度見てみたかったものでしょう。

そして映画の前半部分には、5人が協力しての戦闘とか、杏さやのキャッキャウフフとか、全員分の変身シーンとか、ファンが見たかったであろう、でもTVシリーズでは決してあり得なかった、いろんなシーンがたくさん詰まっています。

ファンが見たいものをしっかり理解して、それを限られた尺と物語な条件の中で存分に披露してくれました。このサービス精神はすごい。あらゆるファン層のことを考えて、最善のものを作ってくれたのだという気がします。




● 物語のルールを順守する『まどか』

そして、TVシリーズにも今回の劇場版にも言えることですが、『まどか』という作品には、なんというか“反則”的なものがありません。

たとえば、よく比較される『エヴァ』には、世界観の説明をかなぐり捨てたり、観客を映してみせたりという、なんだか“反則”的なものがよく見られます。『ウテナ』や『ピングドラム』の世界はあまりにも不条理な現象で満ち溢れていて、何が起きているのかはっきり分かることは殆どありません。

それらに比べると、『まどか』の物語は理屈が難解でありながら、設定に沿ってしっかり辻褄が合っており、それが作品内でほぼ説明されきっています。


こうして見ると『叛逆の物語』は、けっこうキツい条件を自らに課しているように思えます。豊富で多様なサービスを用意し、物語の理屈もきっちり通す。その上でなお、これほど惹き込まれる謎解きのシナリオと、予想を裏切る驚きの展開を作ったのは、それだけで本当にすごいと思っています。




● 何より映像が素晴らしい

語彙が貧弱で申し訳ないのですが、TVシリーズに続き今回の劇場版も映像的な驚きだらけでした。見たことのない、訳の分からない魅力的な世界が、2時間に渡って次々と出現し続けるのです。『まどか』の世界がまだこんなに斬新に生まれ変われるのか、と感じました。この映画を10回以上リピートしてるような人々を、特別に奇異には感じません。それぐらい何度でも見たくなる映像だと思います。

OPとEDもかなり印象的でしたね。特にOPの、ほむらだけが座り込み、他の4人が周りで踊るとこ、衝撃的でした。




● 感情の揺さぶりはあまり強くないかもしれない

もしかしたら低評価の原因になるかもなぁと思ったのは、観る側の感情を強く揺さぶるシーンは意外と少なかったところです。謎解き的な要素や、状況や理屈の説明で忙しかったこともあってか、登場人物の心情を丁寧に描く部分もそれほどありませんでした。ほむらや杏子の心情にはもっと寄り添ってもよかったのでは、という気はしないでもないです。

とはいえ、必要以上に感情移入を迫らないのは『まどか』の良いところなのかもしれません。『コードギアス』や『進撃の巨人』のように、主人公の激情を描きまくる作品だと自動的に感情移入してしまって心が揺さぶられるわけですが、それだけが良いアニメのあり方ではないはず。登場人物たちを少し離れて観察して、その言動の微細に感情を読み取り心を打たれる、『まどか』はそういう楽しみ方に適した作品だと思います。




● 『叛逆の物語』は、ほんの序章に過ぎない?

今回の劇場版『叛逆の物語』は、本当に重要な物語のほんの始まりに過ぎないという印象を受けました。というのも、『叛逆の物語』を終えて、主役3者の相容れない価値観とその対立の構図がはっきり示されたように思われるからです。

母性と秩序の神「まどか」と、
愛と欲望の悪魔「ほむら」と、
功利主義的な正義を執行する「キュゥべえ」。

TVシリーズのストーリーでも、まどかとほむらの価値観は異なっていて、それが切ないすれ違いの物語を構成していたわけですが、今回のほむらの「叛逆」によって、その相違が明確な対立になりました。

『叛逆の物語』ではほむらが暫定的な勝利を収め、まどかとキュゥべぇはその支配下に置かれたようです。しかし、まどかは円環の理を思い出しかけていますし、このままでは終わりそうにありません。ボロボロになったキュゥべぇの瞳が映るラストシーンは、今後のキュゥべぇによる逆襲を予期させます。

次の作品では、この三つ巴を中心に、さやかなど他のキャラクターを含め、世界の在り方を賭けた戦いが展開されるのではないでしょうか(推測)。



何より、終盤のあの渡り廊下のシーン、ほむらがまどかに、いずれ貴女の敵になるかもしれないと言っていたのが印象的でした。

愛する者と、愛のために戦う物語が、きっと始まるのでしょう。


posted by おりあそ at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする