まどか☆マギカ新編、『叛逆の物語』のネタバレを含んでいます。
まずは宇野さんの『叛逆の物語』評について、「宇野常寛のオールナイトニッポン」(11月8日金曜深夜)で聞いた内容を以下に簡単にまとめてみます。
新編は途中まで、TV版と同じようなことをやっている。つまり、繰り返す時間(現代社会の比喩みたいなもの)の中に囚われていて、そこから脱出すると「どうやって成長したらいいのか」みたいなイメージを掴める。新編でほむらは、まどかへの思いをきっかけに繰り返す世界から脱出していく。そこで鍵になるのは同性同士の友情。ここまではTV版でも描いたものを角度を変えて掘り下げただけ。
新編にはここから先がある。ほむらは、まどかがTV版で自分を犠牲にして作った平和を一部ひっくり返し、台無しにしてしまう。ほむらはそれでかまわないんだという決意をする。
これはどういうことか。まどかが作った世界は、誰も傷つかないで済む、完全にシステム化され、完全な正義が実現された世界。しかしほむらはそれに耐えられない。そのような世界は正しいのだけれど物足りなくて、欲望が解放できない。ほむらはそのようなシステムに耐えられなくて、悪と呼ばれることも承知で、開き直って小さな世界に閉じこもってしまう。
ここで同じ虚淵さんが脚本の『Fate/Zero』を思い出してみると、よく似た内容がある。この作品では、二人の主役が出てくる。一人は世の中の仕組みを悟っていて、そのせいで空虚であり、欲望とかがない人物(言峰綺礼)。もう一人は、現代社会には絶対的正義なんて無いとわかっていながらも、悪と言われることも承知で、自分なりに悪と正義を切り分け、正義になろうとする(衛宮切嗣)。『Fate/Zero』はこの二人の衝突を描いている。
この二人は、(おそらく、宇野さんが『リトル・ピープルの時代』で語ったところの)「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」に対応する。そして、悟ってるんだけどそのせいで空虚な言峰は、TV版での結末でまどかが作った世界に対応する。自分の正義とか美に殉じちゃう衛宮は、新編の結末でほむらが作った世界に対応する。虚淵玄の作品では、どちらにおいてもこの2つが衝突している。
世界の終り = 言峰綺礼 = TV版の結末でまどかが作った世界
ハードボイルド・ワンダーランド = 衛宮切嗣 = 新編の結末でほむらが作った世界
『仮面ライダーW』は、勧善懲悪が通用しない現代で、それを復活させようとした作品だった。小さな街だけを舞台にして、引きこもることを選んだ。そして「ある街の正義は別の街の正義とちがう」という前提から逃げた。『W』の最終回は『まどか』新編とそっくりだが、『まどか』新編のほうがずっと深度がある。美醜とか愛とか人間的な価値を求めるためには、ときにはシステムに背を向け、小さく引きこもらなきゃいけないことがある。でもそれは悪になるかもしれない。自分の信じる正義とかを実現すると、誰かにとっては悪になるかもしれない。そういうことを描いていて、これは『W』が描けなかったところ。
正義とか悪とかをどうしても描かなければいけないジャンルである仮面ライダーで、虚淵さんが何を描くかに注目(『仮面ライダー鎧武』)。『まどか』はセクシュアリティとか、他の面から見ても面白い作品ではあるけどそれは別の機会に。
……というのがオールナイトニッポンで宇野さんが話した内容でした。
しかし個人的には納得できないところが多い。
ほむらには「まどかのため」というたった一つの行動基準しかなくて、その基準で新しい世界も作られている。自分なりとはいえ功利主義的な倫理を通そうとした衛宮切嗣の行動や理念とは程遠い。
ほむらがまどかの作った世界に叛逆したのは、単にこの世界ではそのまどかが犠牲になっているからであって、「正しいのだけれど物足りなくて、欲望が解放できない」システムに耐え切れなかったからなんかではない。まどかの世界が空虚だという描写はどこにもなかったと思う。
なので、なぜ言峰がまどかの世界に、衛宮がほむらの世界に対応させられるのか、自分には全然わからない。
それに「世界の終り」って『リトル・ピープルの時代』では「(宇野さんの言う)ナルシシズムの記述法」の話じゃなかったっけ。だいぶ関係ない話になってないかな。あの本の内容をよく憶えてないので、ちょっとここはわからない。
宇野さんは「自分の信じる正義を実現すると、誰かにとっては悪になるかもしれない」っていう話を新編が描いたと言う。でもそんな話は、『まどか』では最初から前提となっている世界観だ。
いくらでも例は出せるけれども、たとえば7話の時点で「希望を祈れば、それと同じ分だけの絶望が撒き散らされる」 「そうやって差し引きをゼロにして、世の中のバランスは成り立ってるんだよ」って杏子が言っているし、杏子の過去もそういう話だ。
さやかは確かに「何人か救いもしたけど」、「その分、心には恨みや妬みが溜まって」他の人を傷つけたり死なせたりした。
ほむらはまどかを救うために、さやかを殺そうとしたこともある。
最終話のまどかが魔法少女の末路を救おうとして世界を改編したことですら、元々いなかった魔獣という存在を出現させてしまった。
そういう世界であることはTV版の時点で誰もが承知なのであって、いまさら新編から読み取るような話じゃないと思う。
「まどかが作った世界」を「誰も傷つかないで済む、完全にシステム化され、完全な正義が実現された世界」だと言うのは、作品の誤読だと思う。
魔獣は暗躍してたし、魔法少女は戦い続けて死ななきゃならないし、エントロピーの問題は解決が遠のいたし、QBも陰謀をめぐらせていた。
ほむらが最終話で「たとえ、魔女が生まれなくなった世界でも、それで人の世の呪いが消え失せるわけではない」「世界の歪みは形を変えて、今も闇の底から人々を狙っている」「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界」と言っていた通りだ。
新編でのほむらの世界改編と同じように、TV版でのまどかの願いも「完全な正義」なんかでは全然なかった。
「まどかが作った世界」と「ほむらが作った世界」を対比させるのも良いけど、こと「正義と悪」の話で語るならば、その2つの世界は本質的にはまったく同じだ。
その2つのどちらの世界においても(あるいは一番最初の世界でも、もっと言えばこれから何度改編を繰り返した世界でも)、本当に根本的なところは何も変わらない、っていうところが『まどか』らしいところだと思う。宇野さんの読みはなにかがおかしい。
全体的に宇野さんは、自分が持ってる理論の側に作品を引き付け過ぎている気がする。宇野さんが自著で自分の思想を展開する中で作品の一例として『まどか』をこのように論じるのならまだ許容できるけど、『まどか』の作品批評としてこの議論はちょっと受け入れがたいなぁ、という気持ち。