2011年10月03日

終番レビュー【TIGER&BUNNY】

 ヒーローものというジャンルは、一部においてその内容が昔に比べて今では変化していると感じます。数十年前のアニメや特撮ものには「正義vs悪」という大きな構図を持った作品が沢山あり、「正義」を体現する超越的なヒーローがいました。そういった公共のために戦うヒーローは、当時に比べると今ではとても少なくなってしまったと言えるでしょう。

 その背景としてはまず、正義のヒーローが成立する根拠となる、ヒーローに守られヒーローを応援する人々というものがイメージしにくくなったことが挙げられるでしょう。60年代以降の日本では、親族や地域社会といった中間共同体の解体が進み、人々は共同体に属さない個人として生きるようになりました。また、経済的な成長は消費の多様化・個性化を招き、人々に共通の趣味・娯楽は少なくなりました。誰もが同じテレビ番組を見ていた時代は失われ、日本社会は文化面でも細分化されたと言えます。一億総中流時代は終わりを告げ、経済的な格差も大きくなりました。多様な価値観や立場を持ち利害の一致しない人々に対して等しく「正義」であり、彼らを守り彼らに支持されるような『ウルトラマン』などの超越的ヒーローを描くのは次第に難しくなり、それらの人気は全体としては徐々に小さくなっていきました。

 ヒーローたちの中で奇形的な進化を遂げ、見事に生き残ったのはロボットでした。『鉄腕アトム』で科学に対する明るい希望と絶対的正義を体現していたロボットは、『鉄人28号』では主人公の少年がコントロールするものとなり、『マジンガーZ』においては主人公が乗り込み操縦する、彼にとっての“拡張された身体”となりました。ご存じの通り、この路線はそれ以降『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』で継承されていきます。ロボットは大衆の支持のもとに戦う超越的なヒーローから、より人間的で個人的なものに生まれ変わったことによって生き残りを果たしたのです。

 再び社会に目を転じてみましょう。90年代にはバブル経済の崩壊、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件が立て続けに起こり、日本社会全体に巨大な暗雲が立ち込めました。他方、国際的な情勢も人々の意識に大きな影響を与えています。冷戦の終結は巨大な「悪」のイメージを難しくし、9.11以降の対テロ戦争は何が「正義」で何が「悪」なのかをますますわからなくさせていました。
 そしてグローバリゼーションが進行する中、小泉政権は“自己責任”を掲げ新自由主義に基づく政策を推し進めました。企業の終身雇用制は崩壊し、国家・地域社会・親族のいずれもが救ってくれない、個人個人の生き残りを賭けたゲームとしての市場経済のイメージが明確になります。一方、学校という場においても、いじめやスクールカーストをめぐる人間関係が時代と共に複雑化しており、学校生活が生き残りゲームという感覚で捉えられるようになってきました。

 ゼロ年代頃には、このシビアな世界観をフィクションの想像力で表現した作品が相次いでヒットします。『バトル・ロワイアル』『仮面ライダー龍騎』『DEATH NOTE』『コードギアス 反逆のルルーシュ』といった衝撃的な作品群(サヴァイヴ系)の登場です。これらの作品は、生き残りゲームとしての残酷な社会を前提として引き受けており、その上で主人公は戦うこと(ゲームに参加)を選択します。ここではゲームの参加者たちは、誰もが自分こそが「正義」だと言って互いに殺し合うのです。『DEATH NOTE』のニアが言うように、絶対的な正義が成立しないこの世の中では「自分が正しいと思う事を信じ、正義とする」のがサヴァイヴ系の倫理であり、「正義」の反対は「悪」ではなく「また別の正義」になりました。こういった点は、パートナーとタッグを組んでバトル・ロワイアルに臨む『ローゼンメイデン』『Fate/stay night』といった作品も概ね同じであり、これらの作品もサヴァイヴ系に列することができるでしょう。

 しかしゼロ年代のポップカルチャーでは、サヴァイヴ系と反対の選択(ゲームに不参加)をした作品群も大きな盛り上がりを見せていました。『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』などに代表される、セカイ系と呼ばれるジャンルです。これらの作品の主人公は、弱者を苦しめる残酷な社会を否定し、その行動が社会を破滅させると知りつつもヒロインと共に社会から逃避していきます。セカイ系の主人公の「正義」の根拠はひたすらヒロインの存在にあり、ここでも「正義」は極めて個人的なものになっています。
 サヴァイヴ系とセカイ系は同じ問題に対して正反対の回答を示したと言えますが、最早いずれも公共のための「正義」を描くことはできず、「正義」の根拠はただただ個人にあるのみとなりました。



 さて、このような困難な状況下にあって、『TIGER&BUNNY』(以下タイバニ)はいかなる形でヒーローを描いたのでしょうか。まずタイバニのヒーローは、決して超人的な存在ではなく、様々な思いや悩みを抱えた人間的な存在であり、普段はヒーローであることを隠して一般市民のように暮らしています。ただ、彼らは特殊能力をもった“NEXT”という変異種の人間であり、被差別種であるゆえに逆説的に特殊な力を得ることができるという、従来からヒーローものではよくある図式が使われています。

 タイバニにおいて、古き良き公共のためのヒーローの象徴はレジェンドですが、彼は既に人々の前から姿を消しています。実は彼は昔のようには活躍できなくなってからイカサマをしており、酒に溺れDVに走り、息子によって殺されていたことが明らかになります。このことは、昔ながらの公共のためのヒーローが既に成り立たなくなっていることの比喩として読み取ることができるでしょう。そしてそのレジェンドの息子こそがダークヒーロー“ルナティック”なのです。

 一方、タイバニの現代のヒーローたちはそれぞれに自分の信念に従って戦います。ワイルドタイガーは街中の物を破壊してでも市民を守る、バーナビーは普段は得点稼ぎを優先するがウロボロスへの復讐が第一目標、折紙サイクロンはスポンサーロゴのアピールが何より大事、ルナティックは殺人犯を殺して粛清する、……といったようにです。ここでも「正義」の根拠は個人的なものに過ぎません(中でも、世間の価値観から最も自由であり、“自分の”「正義」を行うことを宣言しているルナティックが最強であるのは注目すべき点です)。しかし、タイバニのヒーローの「正義」は根拠が個人にあるにも関わらず、公共の「正義」として成立しており、しかもそれがあまり嘘くさくなってはいません。これは何故でしょうか?

 注目すべきは、タイバニの舞台はほとんど架空都市シュテルンビルトの市内に限られているという点です。実際、ヒーローたちの管轄はあくまでシュテルンビルト市の司法局にあるようで、都市の外でも同じように活動するわけにはいかないのでしょう。この都市に居る限り、「シュテルンビルトの平和を守ってほしい」という点で人々の思いは一致します。タイバニのヒーローは、その活躍をシュテルンビルト市内に限るという条件をつけたことによって、個人の「正義」の公共化に成功したのです。

 さらに特徴的なことは、タイバニのヒーローは徹底的に資本主義に従属させられているということです。ヒーローたちが警察の代わりに市内の凶悪犯罪に対応した様子は、視聴率至上主義のプロデューサーが仕切る番組“ヒーローTV”によって放映されます。ヒーローには犯人逮捕や市民の保護などの結果に応じて点数が与えられ、ヒーローの点数ランキングが市民の話題となるのです。ところで最近、現実世界でもこれとそっくりな手法で大成功を収めている人たちがいます。そう、資本主義の極地たるアイドルグループ、AKB48です。
 いかに舞台をシュテルンビルト市内に限って「正義」を正当化したとしても、それだけではやはり弱い。というのは、市内レベルで出現する「悪」は大抵あまり強大なものではなく、弱い「悪」と戦う「正義」というだけでは物語として貧弱なのです。ここで逆転の発想が登場します。すなわち、強大な「悪」がいないなら、「正義」同士を競争させればいい。この発想は、ライバルが居ないならメンバー内で競争させればいい、というAKB48の商売戦略とよく類似していると言えるでしょう。タイバニは資本主義を完全に受け入れていながら、サヴァイヴ系と異なり、資本主義の枠組みの中でなお自分本位で終わらない「正義」を描いています。

 タイバニは以上のように面白い工夫を重ね、公共のためのヒーローを描くことが困難な時代に(条件付きではあれど)それを成し遂げました。新時代のヒーローものを考える上で、極めて重要な作品と言えるのではないでしょうか。
posted by おりあそ at 04:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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